管打式銃砲
全長22.2糎 銃身長 15.1糎 口径1.0糎
真鍮八角の銃身に唐草を施刻した管打式銃。管打式とは銃の着火に火縄のではなく衝撃で発火する発火薬を詰めた小さな筒状管(雷管)を用いる銃である。ニップルと呼ばれる銃身上の突起(火口)にキャップ状の雷管を被せ、撃鉄で雷管に衝撃を加えて、雷管を起爆させることで火薬に着火する機構を備えた新式銃である。
管打銃は舶来の兵器との認識が強いが、意外にも幕末には和製の管打銃の生産が広く行われていた。その嚆矢となる研究を進めた人物が尾張藩の吉雄常三(よしおじょうざん)その人である。
蘭学に通じた常三は雷汞(らいこう)と呼ばれる雷管の着火薬の研究を行ない、天保十三年には独力で雷汞の製造に成功し、初めて国産の雷管製作に成功した。常三の著した研究書『粉砲考』には雷汞の製造法が事細かに記されてり、この雷管を用いて粉砲と呼ばれる日本初の国産雷管式銃砲の製造にも成功した。
1807年にアレキサンダー ジョン フォーカスによって雷管式銃が初めて英国で特許を得てから僅か25年後の天保十三年(1833)、鎖国下にある日本において、すでにその国産化に成功していた事実に驚かされる。
悲劇的なのは、吉雄常三のその後である。雷汞は硝酸溶液とエチルアルコールを反応させて作る化合物で、僅かな衝撃や摩擦で簡単に暴発する。
その威力と暴発の危険性から、常三の『粉砲考』は尾張藩から発禁処分を受けてしまう。
常三は扱いやすい新たな雷汞の発明を志し、自室で研究を続けたという。そんなある日、常三がいつものように雷汞をガラス瓶に入れ、これに蓋をしようとしたその刹那、慎重に慎重を期して扱っていたはずの雷汞が爆発、瓶の蓋で動脈を切断された常三は鮮血にまみれて無念の最期を遂げてしまう。
時に天保十四年九月五日 齢五十七才であった、、、。
この後、常三の研究成果は、江川太郎左衛門に引き継がれた。江川は雷汞の繊細に過ぎる爆発感度を抑えるために硝石を混合させて起爆をコントロールする新雷管を発明するに至る。
名も知らぬ草々の士の高い志に、往時の武士の国防に懸ける気概が伝わってくる。国産雷管銃に秘められた悲話として吉雄常三の名は後世に語り継がれるであろう。
解説 銀座長州屋 今津
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